母と久しぶりに飲み、ほろ酔い気分にも拘わらず、脳みそが面白い事を考えだしたのでここに“不真面目VOICE”として書き留めようと思う。(本当に酔っぱらっていて文体が乙←)
久しくパートナーを持たず、本音や我儘を言いたくても言えない表層的で一過性の男女関係に慣れてしまっている。
母とパートナーや恋愛の話になったのも、25をもうすぐ迎える女性としてのある一種の通過儀礼の様なものかもしれない。
20代超前半、母公認のパートナーがいた。
“私”という人格に対してなんかには勿体ない素敵な人だった。
お別れに至ってしまったが、気を使わなくて良いフェミニストで素敵な男性だった。
やりたい事ややらなければいけないことが散在する私にとって、私が誰かにとっての1番は有難いけど、苦しい事や申し訳ない事のほうが経験上多かった気がする。
付き合っていた当時(今もかもしれないが)2番目やもっと下の7番目でも良いと思っていた。
男女関係に対してコストパフォーマンスが悪く、二人で行うもののため、タイミングによる感情の扱いが難しい印象だったからだ。
それでも矛盾や相反する感情の挟間で揺れ動いてしまうのも男女関係の醍醐味なのかもしれない。
例えば
“この人の1番になりたい”と思うと同時に
“自分はこの人を一番にできないから、一番になる事を求めてはいけない”
の様に。
類似例で昔パートナーと議論になった「ずっと一緒にいよう。」と言われた言葉。
「ずっと」という安い言葉よりも
「始まりがあれば終わりがある」
という言葉のほうが現実的で対策が立てやすいのではという発言をして喧嘩ちっくになってしまったことが懐かしい。
考え方や発言が可愛くないのは致し方無い。
人間は感情と理性の二人が同時に存在している。
その上で、女性という立場では感情を表に出すと異性からは誉め言葉がもらえる事に最近気が付いた。
感情を発言や伝えているのと同時に同じスピードで理性が頭で働いているため、意外と甘い言葉で無い方がすんなりと“私”の中に入ってくるのは面白いと思ってしまう。
昔は甘い言葉に対して温かさを感じていたが、同時に飽きられるのではないかと不安も生まれていた。
“パートナーが誰であれ、自分の芯をしっかりと持ちなさい”
そんな母の言葉はそんな感情的になりやすい甘美で中毒性のある男女関係への理性で律する戒めなのかもしれないと思ってしまった24歳酔っ払いである。
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