英語を日常的に使い始めて4~5年目(たぶん)が経ちました。
全く話すことができないレベルから、今ではディスカッションのみならず、英語でプレゼンテーションや授業を行うレベルにまで到達しました。
また、短期間でしたが、某大手英会話の日本人講師も務めさせていただきました。(現在休業中)
英語について、特にコミュニケーションについて考えてみることが多いので小分けにして記事を書いてみようかと思います。

【筆者(Nozomi)の英語歴―教科としての英語】
私(Nozomi)の英語力に関しては典型的な日本人が受けるテスト系統はほぼ全滅。
(トイックとか英検とか…ていうかテスト超きらい。)
センターでは練習含め7~8割程度取れていました。
英語自体の教科としての勉強は他の教科に比べると悪くはなかったです。
(理科系が嫌いで文系でしたが、生物は3割しか取れてませんでした。)
高校1年生の春休みにアメリカの姉妹都市に2週間ほどの短期交換留学に参加するも、大学の1年生終了時まで英語に対する概念は「教科」でした。

【”教科”の英語から”言語”の英語へ】
英語が“言語”へ変化したきっかけは日本語が全く話せないノルウェー人男性の事を好きになったのがきっかけでした。
言語が話せる様になる典型的なパターンです(笑)
当時国際交流ボランティアとして参加したのですが、“教科”としての英語は得意だった私の天狗鼻は“言語”という英語の壁にぶち当たり、見事にへし折られました。気になる彼が何と言っているか全く理解不能。
また、私自身も伝えたい事を英語にできず、とても悔しい思いをしました。
また、幸い、彼も私の事を気に入ってくれたのかスカイプのIDを交換し、彼の旅行以降連絡を取り合うようになりました。
彼と連絡を取り合いはじめて、初めて私の英語は“教科”から“言語”へと変化しました。

【言語としての“英語”―聞くと聴く―】
連絡を取り合いはじめたころは知らない単語や忘れてしまっている単語だらけ。
その度に「スペル教えて!」と何度も聞き、書いてもらい、辞書で調べて…の繰り返しでした。
スピーキング、特に発音に関してはひどかったです。日本人特有のRとLが正しく発音できない、ThがSになっていたり…。
音読ではきちんと読めていても実際に単語として使うと、彼に通じない事が多く、使いこなせていなかったのがよくわかりました。
彼がALTなどの今まで出会ってきたネイティブスピーカーの人たちと違ったところは”聞く“と”聴く”姿勢があったことでした。

私の下手な英語を最後まで“聴”いてくれたし、私の言っている意味が分からない時はわかるまで“聞”いて(尋ねて)くれました。
私の方も、内容から分からない単語を推測する事もできるので相手の言っている事を取りあえず最後まで“聴”く。
そして、も分からない事や聞き取れなかったことは分かったふりをせず、その場で“聞”く。
背景には言語に関係なく、コミュニケーションの根本である「相手を知りたい」という気持ちがありました。
【日本人に足りないのは “聞く”力、そして世界に誇るべき日本人の“聴く”力】
英語は言語。母国語と同様にわからない単語、言い回しがあって当たり前です。
ネイティブスピーカーだって使い方を間違えますし、専門用語は知らないこともあります。
英語を話す場で、日本人はわからない時に“聞”かずにその場をやり過ごそうとする傾向が多い気がします。
分からない事、理解できない時に「わからなかったけれども、それってどういう意味?」
その一言がその場で“聞”けない。
先ほど述べた、コミュニケーションの根本である「相手を知りたい」という気持ちがあるのであれば、「わかったふり」は相手に対して失礼だということが今の立場になって気づいた事でもあります。

これは言語に限らず、学校の授業等でも当てはまると思います。
授業中に分からないことがあってもその場で聞かずに、終了後に先生に尋ねに行く。
「とりあえず最後まで聴く」日本人(※)は“聴く”態度はしっかりとできています。
一方で英語を流暢に操るヨーロッパ人達(※)は最後まで話を“聴”きません。
会話や、授業の途中で妨害してくるのは当たり前。
(この違いは日本語と英語の言語体系にも理由があるのでそれはまたの機会に書きます。)

グローバルと呼ばれる環境関係なしに、”聴く”態度が良いと相手から好かれます。
また、”聴く”態度が良い人の方が、情報が正確な事も多いです。
日本人に必要な分からない事に対して”聞く”練習。これは言語に限らず必要な能力かもしれません。
コミュニケーションという事が平等に行われるのであれば、同時に彼らに対しても”聴く”態度を培う必要だと異文化背景を持ったチームメイトとグループ活動をする度につくづく感じます。
英語教育の変革で日本でもアクティブラーニングの導入されてきている様ですが、日本人の”聴く”力はそのままであって欲しいと個人的には思います。
※あくまで個人の見解です。また、チームのマジョリティは南ヨーロッパが占めています。